~ぼくの出会った最大の「天才ミュージシャン・木田高介(きだ たかすけ)」

池 一 (74回)

2019.05.16
寄稿

「本名・桂 重高(74回入学後、東京へ転校)」 ~1949ー1980年(31歳で夭折)~の思い出

◆はじめに◆<初の“ソロCD”>


木田高介『DOG\\\'S MAP & CAT\\\'S MAP』~ソロアルバム初CD 最初で最後~歿後38年(全8曲/ロスで録音)SONY Music 2018.10発売
先日、72回卒の冨田由李さんからCDが一枚届きました。冨田さんは、新潟高校のジョリー・チャップスで1年後輩だった桂重高君のお姉さんで、青山同窓会の受付の手伝いなどよくしてくれた人です。
 桂君は新潟高校2年2学期末、東京の和光高校に転校、芸大進学、プロの音楽家になり、「旅立ちの歌」や「神田川」のアレンジャーとして名をはせた後、河口湖で交通事故死しました。
 生きていたらきっと「有名人」になった男です。楽器は何でもこなし、まさに、マルチプレーヤーで、ぼくの出会った最大の「天才」です。CDには彼の作曲したジャズ風の曲が入っていました。 以下、~ 思い出を。
 

木田高介『DOG'S MAP & CAT'S MAP』
~ソロアルバム初CD 最初で最後~
歿後38年(全8曲/ロスで録音)
SONY Music 2018.10発売

◆ジョリー・チャップス練習風景◆


写真1
<1963~4年頃:体育館部室>
写真1は、体育館ステージ脇の部室で練習に励む6人です。
ギターが立石君(75回生)、中央のトランペットが佐藤君(74回生)、トロンボーンが大竹君(74回生)、右端のトランペットが藤間君(75回生)、そして左端のアルトサックスが池一(74回生)です。

桂君は「天才」でした。私は不遜にも、「かなわないなあ」と思った人物は少ないですが、彼はその一人です。彼は音楽に関しては何でも出来た。楽器はなんでもこなせた。吹いたことのある人はわかると思うが、クラリネットの低音部を安定的に奏でるのは、非常に難しい。彼はそれをいとも簡単にこなした。

その頃、ジョリー・チャップスは「採譜」をしていました。我がバンドにあった楽譜など売っていないので、オリジナルのレコードを聴き、そこから直接、自分のパートはどんな音を出しているか聞き取るのです。これがちょっと難しい。しかし桂君は、ここでもその存在感をいかんなく発揮していました。

ジョリー・チャップスも曲がり角に来ていました。昭和39年の国民体育大会(国体)が開催された頃で、みんなが楽器を持ち始める頃です。国体といえば開始のファンファーレを誰が吹くかが問題です。(いかにもお役所仕事らしいのですが)それが、実情などを無視して新潟高校に廻ってきた。私が覚えているのは、入学早々、「中学時代に楽器に関係したことのある奴は集まれ」とばかりに人集めがなされ、毎週、新装なった陸上競技場で東京から芸大の先生(?)を呼んで練習したことでした。中校舎の階段下に楽器蔵が作られ、そこに楽器は納められましたが、(たぶん、幹事役を押し付けられた)現代国語の岩野先生がおろおろするばかりで、結局は中学、高校の吹奏楽部の選抜メンバーがファンファーレを吹きました。顧問は宮浦中学の吹奏楽部の先生が勤めました。


写真2
このように、吹奏楽の「あけぼの」の時代ですが、楽器をこなせる奴は増えてきた。そこでジョリー・チャップスでも、出演メンバーの少ないディキシーランド・ジャズからフルバンドで出来るものへ転換を図ることになりました。

 そうすると、譜面台作りに励むことになります。今のテレビ歌謡番組などでバックに音楽を奏でる楽団が使っているあれです。材料のべニア板を買ってきて、夏休みをつぶして皆で作りました。これが一番楽しかった。新潟高校での懐かしい「思い出」です(閑話休題)。

 桂君は、クラリネットで当時我々が準備できなかったテナーサックスのパートを吹きました。こんなことが出来たのは彼だけです。

 彼は、ドラムス、ピアノ、ビブラフォン、管楽器など「何でもござれ」でした。大学時代、社会人になってからの彼は知りませんが、新聞で彼の事故死を知って「惜しいなあ」と思ったものです。彼の追悼演奏会のメンバーを見れば、日本のポピュラー洋楽界を引っ張っていくメンバーだったことは間違いありません。

 死後だいぶ経って同窓会で、彼のお姉さんを知りました。奇遇でした。

 このように、新潟高校にはまだまだ人材は豊富ですが、桂重高君を忘れないでほしいのです。

~ ひと、音楽 ~(公表資料等)

◆木田 高介(きだ たかすけ)◆
木田 高介(1949年1月8日-1980年5月18日)は、鍵盤楽器、弦楽器、管楽器、打楽器など、多様な楽器を扱うミュージシャンで、編曲家。
本名は、桂 重高(かつら しげたか)。
新潟県生まれ。母・木田恵子(2006年歿)は日本精神分析学会元会員。新潟高校75回入学→2年2学期末に東京の和光高校へ、東京藝大打楽器科入学。在学中に、ジャックスに参加した。

ジャックス解散後は、編曲家となり、「出発の歌」(上條恒彦)、「神田川」(かぐや姫)、「私は泣いています」(りりィ)、「結婚するって本当ですか」(ダ・カーポ)など数々のヒット曲を手掛ける。

1975年から1980年の間、ザ・ナターシャー・セブンに参加した。 その後、ソロ活動を始めた矢先、交通事故で死去した。

ザ・ナターシャー・セブンに参加していた頃は“木田たかすけ”と称していた。

<活動の記録>
1967年 - 1969年 ジャックス
1967年、早川義夫をリーダーとするジャックスに参加。ドラム、サックス、フルート、ヴィブラフォンを担当。

1969年 - 1974年 編曲家
ジャックス解散後は、六文銭に一時在籍した後、CBSソニー、東芝EMIを中心にアレンジ、プロデュース業を幅広く手掛けた。

1980年5月18日午前1時、山梨県の河口湖にて車を運転中に事故を起こし、同乗していたミュージシャン阿部晴彦と共に死去、31歳だった。

<1980年・追悼コンサート>
事故から約1ヶ月後の1980年6月29日、日比谷野外音楽堂で「木田高介・阿部晴彦追悼コンサート」が開かれ、1万人近くのファンが集まった。この日は明け方に地震があり、一日中雨模様であった。
午後2時開場、3時開演、午後8時終了。すべてチャリティー、売り上げは二家族の遺族に送られました。


◆参加ミュージシャン:ザ・ナターシャ・セブン(高石ともや・坂庭・城田と石川)、オフコース(小田和正・鈴木・大間・清水・松尾)、かぐや姫(南こうせつ・伊勢正三・山田パンダ)、風(伊勢・大久保)、五つの赤い風船(西岡たかし・長野・東・藤原秀子)、吉田拓郎、小室等、遠藤賢司、斉藤哲夫、下田逸郎、かまやつひろし、イルカ、りりィ、はしだのりひこ、北山修、ダ・カーポ、山本コウタロー、五輪真弓、加川良、沢田聖子、ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド(坂庭の弟も出演)、金子マリとバックスバニー、チャー、スピードウェイ、スクランブル・エッグ、上条恒彦、倍賞千恵子、吉川忠英、瀬尾一三、岡本おさみ、喜多条忠。

◆曲は:喜多条司会、ダ・カーポ「結婚するって本当ですか」で始まり、赤い風船を中心に「遠い世界に」で幕を閉じた。ここまで揃った顔ぶれは多分後にも先にも無い。
また宇崎竜童が何度も写真を撮っていた。

印象的なのは北山修が泣きながら「帰ってきたヨッパライ」、オフコースが無伴奏で「いつもいつも」、吉田拓郎が「アジアの片隅で」を30分近く歌ったことなど・・・。

 木田といえば、「神田川」「なごり雪」「出発の歌」「ルームライト」「魔法の黄色い靴」「私は泣いてます」「結婚するって本当ですか」などの編曲が有名だが、ラスト全員で歌ったのは木田とは無縁の「遠い世界に」。

◆エピソード:木田の葬儀に参列していた 五輪真弓が木田の妻の悲嘆ぶりを目の当たりにし、それを基にして作った楽曲が彼女の代表作となる「恋人よ」であった。

<歿後30年、再評価!>
名編曲家,腕利きマルチプレイヤー,木田高介アンソロジーアルバム~2011年発売。
活動 : ジャックス(1967~1969)
・ジャックス:異端・前衛~GS・フォーク・ロックでもないオリジナリティー~伝説のバンド。1960年代後半活動した日本のサイケデリック・ロックバンド。当時は一般的人気を得ることもなかったが、解散後、日本のロックの先駆者として高評価を受けた。
木田の音楽的才能は抜きんでていた。ジャズを指向した音楽つくりは欧米の模倣ではない「日本のニューロック」に先鞭をつけ現在高評価を得る。

 

ピアニストは、ドラムをたたきたいのではないだろうか?
ポップスとジャズは・・・・・ジャズとクラシックは、別の物だろうか?
演奏家は、作曲家である必要はないだろうか? 音楽人間は美術人間にあこがれていないだろうか?
芸術的な仕事には、物理学的な頭脳が必要ないだろうか?
学問人間は、ばかばかしい遊びに興味はないだろうか?・・・・てな事を漠然と考えながら、
31年間も生きて来てしまった。
360度に向けた好奇心と、そして、しつこめの探求心。おじさん的見てくれに包まれた、
子供っぽい精神が、今一番面白がっている物は、いろんな人間を眺める事と、いろんなオモチャ・・・・。
ひとつの物に対して、いろいろと観点を変えて考えるのは、とても面白い。
そこにただころがっているビー玉。それを使って遊ぶビー玉。
ころころ転がるビー玉。光にすかして見るビー玉。溶けたガラスを、パイプの中に転がして作るビー玉。
ミクロのビー玉。マクロのビー玉。ビー玉の中の気泡の宇宙。世界は際限もなく拡がってゆく。
今日も、明日も、あさっても、真剣に遊んで、もっともっと広く、そして、
ちょっぴり深く生きてゆきたいと思っているのです。

1980年、春 木田高介 ( ソロアルバムの 「ことば」 より )